一、喧嘩はするべし、
喧嘩はしたくないですよね。しかし、喧嘩してみないと分かり合えないこともあるのです
なぜなら、人は伝えたいことがあっても我慢してしまったり、抑えてしまっていたりするのです。
どうせ言っても無駄だし、わかってもらえないし、喧嘩も嫌だから、諦めています。と言う夫婦がなんと多いことか。
だんだんと理解し合えなくなり、会話も最低限になり、会話が途絶えていく、子どもが巣立ち、役割を終えると大爆発する。
喧嘩は、自分の考え、価値観をぶつけ合い、違いを確認し合う場です。
大いに定期的な喧嘩をしましょう。
ニ、喧嘩したら、その日の内に謝りあうルールって必要か
大切なのは、違いをぶつけ合った後です。
私達は、その日の内、又は次の日の午前中には、仲直りすると言うルールがあります。
でも、なかなか、自分からは謝れないと言うことがありますね。
たった、ごめんね。と言う4文字です。
笑えませんか?幼稚園の子どもが言える事をなぜ私たち大人は言えないのですかね?
それは、大人になる過程で自分の正しさがまし加えられて成長するからです。
様々な経験体験から、
固定観念、バイアスが成長過程で形成されてゆく、考え方、正しさが固定化されてゆく、
そして、体の関係で一体となった2人は一つとなり、自分の考え、正しさに相手に従わせようとする。なぜなら、許し合い一体となると言う事は、ひとつの体になると言う事であり、強力な結びつきを生み出します。
自分の体の一部の様になるのです。
すると、それは、相手を支配し、自分の体の一部の様に錯覚させ、扱う様にデザインされているのではとおもうのです。
これは、とても大事なポイントです。
三、なぜ、喧嘩になったのかを勇気を持ってつたえあう
なぜ、神様はそうデザインするのか?
そう考えたことがえります。人間はコミュニティを形成して生活する生物です。
人間関係を、構築し、相手との違いを受け入れ合い、上手く生きてゆがないといけない動物です。
よく考えてみてください。ぼくは、コミュニティを形成して生きてゆくうえで、夫婦というのは、違いを受け入れ合ってゆく、訓練の場だと思うのです。
人は失敗をしながら成長してゆく生物です。
訓練する場があり、その訓練を生かす場が社会です。
だから夫婦、家庭は訓練場、そこで上手く生きてゆく違いを受け入れ合って行くその訓練必要だと思いませんか?
だから、勇気を持って訓練してみるのです。
四、常に相談できる第三者を人生に持つべし
その訓練をしている最中にどうしても、どうにもこうにもならなくなる場面に出くわします。
特に子どもが生まれてからです。
なぜ子どもが生まれると更に課題にぶつかるのか?これは、どこかでお話し致しますがー
とにかく、分かり合えなく、折れる事ができなくなります。
謝っても、謝っても、許してもらえず、また、相手を許せない場面にも出くわすのです
でも、見えない神仏になら謝れるのです。
神様。仏様、ご先祖様等。
私達は、クリスチャンなので、とてもラッキーです。常に素直に謝れる相手がいるのです。
相手には謝れないけど、神様になら謝れるのです。
神様ごめんなさい。相手を許せません。謝れません。でも、僕にも悪いところがあります。ごめんなさい。
そうことばにすると自然と許せるのです。
五、目に見えない神仏を通じて、祈り合うべし、
祈り合う大切さ僕たちは、クリスチャンなので、喧嘩した時は祈り合います。
どちらともなく、祈り合おうと言う空気になります。
まだ。相手を、許せてません。そんな時に神様に感情を、ぶつけ、許せない気持ちがあると伝える。
隣でその祈りを聞いているパートナーにも聞こえるように。
でも。相手を受け入れ許します。ごめんなさい。
そう祈ったとき、体からスーッと自分の正しさが抜けていく。
そうか、自分の正しさと相手の正しさともに受け入れ合っていく。
そこに人間としての成長が加速されて行く。
この成長が社会でどんどん評価されてゆく。
夫婦喧嘩とは、究極の人間成長モデルだと思う。